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越路吹雪よ、寒くはないか。1

昭和15年、夏。


池田駅を改札を出て、駅前の公園を横切り、坂道をずっと歩いていくと、蝉の鳴き声が響く住宅街の中に大きなお屋敷が見えてきます。夏の日射しが厳しさを増し、顔に汗がしたたる季節となった今、この坂道はちょっとした難所です。「ねぇ、私の顔ひどい?」。「ええ、暑くてやってられないって顔をしてます」。お屋敷の敷地に配された大きな木の陰に身を寄せて、うら若き女性が2人、顔の汗をハンカチで押さえています。そのうちの一人、敬語を使っている女の子の名は、岩谷トキ子さん。宝塚歌劇団の機関誌「歌劇」や「グラフ」の編集部員になって1年未満のひよっこ部員です。さて、この大きなお屋敷に、トキ子さんは月に1度行くことになっています。彼女にとって月に1度のこの瞬間は、いつまで経っても慣れることのない、もっとも緊張する瞬間のひとつです。
トキ子さんは大きく息を吸い込み、呼吸を整えます。

「ごめんください。『歌劇』の岩谷です。原稿を頂戴しに参りました」。

お手伝いさんの案内のもと、趣味の良い骨董品がさりげなく飾られた廊下を渡り、応接室に通されます。トキ子さんは部屋に入ると、毎回ぐるりと室内を見渡すことにしています。控えめに飾られた床の間の花や掛け軸、それから調度品が、行くたびに変わっているからです。今日の花は紅い花なすの実で、飾られた絵は円山応挙の長男・応端の「朝顔図」。「これ、この間、新聞かなにかで見かけたわ。先生が自慢してらしたの」。隣で同じようにかしこまって、この家の主を待っている先輩が囁きます。さすが雅と俗を極めていると名高い小林一三先生のお宅の応接間。トキ子さんの背筋は頭のてっぺんを引っ張られたようにいっそう伸びてしまいます。

「やぁ、暑い中よく来たね」。ほどなくして、小林先生がお見えになります。トキ子さんは先輩とともに深々とお辞儀をします。

「先生が連載している『おもひつ記』の原稿を頂きに参りました」。
「うん。あとちょっとで出来るから、ここでもう少し待っていてくれよ。それより、葡萄のラムネを飲んだことはあるかね?ちょうど手に入ったんだ。おい、この子たちに葡萄のラムネを飲ませておやり」。先生は奥様にそう伝えて自分の書斎に戻っていきます。

「葡萄のラムネですって。トキちゃんは飲んだことある?」
「ないですないです」
「先生ってやっぱり新しいものが好きなのね。」

奥様がやってきて、淡い紫色をしたラムネの瓶を2本、目の前に置いてくれました。先輩がすぐに手に取って、蓋を使い、中のビー玉をぐっと押し込むと、ガラス瓶の中で小さな泡がぷすぷすと浮かび上がり、見るだけで涼しくなってきます。

「わぁ。本当に葡萄の味がちゃんとするんですね。トキちゃんも飲んでごらん。すっきりするわよ」。

急かされたトキ子さんも、ラムネを手に取ります。

「あのひと、これを一口飲んですぐに気に入っちゃって。ものすごく沢山取り寄せてしまったの。だから遠慮せずに飲んでね」。

奥様はラムネと一緒に、お抹茶用のお菓子を出してくれます。薄い水色の上生菓子はダイヤモンドの形をしていて、その中に小さく朱色の金魚の模様があしらわれています。「わぁ、夏にぴったり。もったいなくて食べられないわ」。トキ子さんにとって小林邸に行くことは、もちろん緊張することのひとつなのですが、同時に楽しみでもありました。美しくて、美味しいお菓子が毎回登場するからです。中でも登場回数が多いのは、小林邸の近くにある和菓子店「福助堂」の大福餅。お抹茶とも麦茶ともほうじ茶とも相性抜群なこの大福は小林先生の大好物として知られています。

「あの、このお菓子とラムネ、持って帰ってもよろしいでしょうか。ラムネがとっても好きな人がいて、飲ませてあげたいんです」。
「そういうことなら、もうひとつ用意してあげるから、トキ子さんはそちらを召し上がって?お土産用の包みに入れて用意しておくから」。

 

小林先生から無事に原稿を受け取り、阪急電車に揺られたふたりは宝塚歌劇団の本拠地に戻ってきました。小林先生の原稿を編集長に渡して、トキ子さんは自分の席に着き、仕事に取りかかります。まず、先週撮影した春日野八千代さんの写真の中から、誌面に使うとっておきの1枚を選びます。毎月テーマを決めて複数のスターが同じ役柄に扮装をする人気コーナーに使う写真です。選ぶのにも時間がかかってしまいます。それが終わると、今度はスターが集まった座談会の内容を清書していく作業です。座談会も人気コーナーなのですが、テーマは毎月違います。劇団の寮生活のことであったり、作品のことであったり、お化粧のことであったり。トキ子さんの知らないこともたくさんあって、清書をするのは最初の読者になったよう。毎回楽しみにしているのです。

「ねぇ、何してんの」。

集中して仕事をしているトキ子さんの元へ、ひとりのタカラジェンヌがやってきます。編集部の部屋は歌劇団のお稽古場のひとつ下の階にあり、行き来がしやすいので、お稽古場で大きな顔の出来ない低学年の生徒は、よく編集部にくつろぎにやってくるのです。

「あらコーちゃん。今ね、座談会の記事を作ってるのよ」。
コーちゃんは、ふうん、と興味がなさそうに呟いたあと、作業を続けようとしていたトキ子さんに再び話しかけます。

「トキ子さん、この前貸してくれた太宰治の本はもう全部読んじゃったの。他の人の小説はある?」
「今すぐ貸せるのは井伏鱒二の小説ぐらいかしら。他の子に貸してたのが今日返ってきたから」。
井伏鱒二って、ちょっと前に貸してくれた『山椒魚』の人?いいわ、それを借りていくわ」。

じゃあね、と言って、本を受け取るとコーちゃんはすたすたと出ていってしまいました。ひょろっと背が高くて、無口で、いつの間にかいて、いつの間にかいなくなってる感じの子。編集部で長居をするおしゃべり好きの下級生が多いなか、コーちゃんこと越路吹雪さんはそうではありません。

「あの子とトキちゃんって同期だっけね。仲良しなの?」。隣の席の先輩が話しかけてきます。

「コーちゃんの期が入団した年の秋に私が入社したから、いってみれば同期ですね。実はあまり話したことないんです。ほら、コーちゃんって無口だし。ときどき『本貸してよ』って、私のとこに来るくらいです」。
「そうなの。でもトキちゃん?この仕事をしてるからには、特定の子と仲良くするのはよくないわよ。仕事がやりにくくなっちゃうからね」。
「はい」。

編集部員になってもうすぐ1年。トキ子さんは、引っ込み思案な自分が、まさかこんなに多くの人と関わる仕事をするとは夢にも思っていなかったようです。

  

つづく