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宝塚や本、映画、旅行のことなど。

花總まりは帝劇の女王なのですから

中学2年の冬のことだ。
テスト期間中で昼から家に戻れることになり、ご飯を食べようとカップ焼きそばにお湯を入れて待っていたとき、何気なくテレビをザッピングしたらNHKのBS2(現在はプレミアム)にきらびやかな画面が映った。しかし、お昼のワイドニュース「ザ・ワイド」が大好きだった当時の私はその画面を気に留めることもなくチャンネルを変えようとした。そんなときだった。画面の中央で深紅のドレスを着たフランス人形のような顔立ちの女性が、こちらに向かって「静かになさい」と語りかけた。

 私は手をとめた。女性は、赤い絨毯が敷かれた階段をゆっくり1歩ずつ下り、子どもたちに「パリに行くわよ」と言い聞かせたあとで再び正面を向き、決意を固めたように宣言した。

マリー・アントワネットは、フランスの女王なのですから」。

思わず見とれてしまった。そのシーンが終わり、場面は次に移っていたにも関わらず、私の目には赤いドレスのマリー・アントワネットが鮮明に刻まれたままだ。心を3分前に置きっぱなしにしたまま、時だけが過ぎている感覚を味わった。 
それが、私と宝塚との最初の出会いだ。

2001年の宙組公演「ベルサイユのばら2001・フェルゼンとマリー・アントワネット編」で宝塚を知った私は、続けてテレビで観る機会があった2000年月組公演の「LUNA」を観て真琴つばさに陥落する。どこまでもキザったらしく、ちょっと無愛想で、けどセクシーな流し目を連発する真琴つばさに会いたいと、宝塚の情報を集めまくり(既に彼女は退団していた)、宝塚おとめを入手してぼろぼろになるまで読み込み、1カ月後には見事なヅカファンの仲間入りを果たした。

 宝塚を知れば知るほど、2001年にマリー・アントワネットを演じた花總まりが宝塚内でどのような存在であるかを理解し始める。
 1991年に77期として入団し、星組に所属。研1で「ミーミルちゃん」という超絶かわいい妖精さんの役をゲットし、「あのスタイルの良い子はいったい!?」と注目を集める。雪組へ組み替え後1994年の「風と共に去りぬ」の新人公演では、娘役であるにも関わらずなぜか男役トップスター・一路真輝の演じたスカーレット・オハラに抜擢。同年、娘役トップスターに就任した。
 就任してからは雪組宙組で5人の男役トップスターの相手役を演じる。2006年に退団するまで、娘役トップとして在籍した12年間は他の追随を許さない就任期間だ。その長さゆえ他のファンからは皮肉を込めて「女帝」と呼ばれていたこともあった。マリー・アントワネットエリザベートトゥーランドット額田王、メルトゥイユ、クリスティーヌ、カルメン。演じた役をざっと挙げてみても、どれも当たり役と呼べるものばかり。「女帝」の名に込められた意味は、皮肉に加えていつしか肯定的な要素が含まれていく。

 2006年の退団後、彼女は表舞台から姿を消した。宝塚で15年やったからもう十分だという思いがあったという。辞めてからは元相手役のマネージャ—を務めた。この頃、どんな風に過ごしていたかはあまり語られていない。

 2010年頃から少しずつ舞台へ出演するようになったが、本格的に舞台復帰するきっかけになったのは、2012年エリザベートのガラコンサートに出たことが大きい。ファンから「ここがあなたの生きる場所だ」と言われ、自分ができることは何かと考えて自らの意志で舞台へ帰ってきた。

 彼女の復帰はなんとなく知っていた。しかし2014年、「花總まり東宝エリザベートを演る」という情報が私に届いたとき「いよいよこの時が来たか」とファンでも何でもないのに強く思った。これは観なければ絶対後悔する。一生後悔する。

 花總まりの当たり役は多いがエリザベートは別格だ。初演のエリザベートを成功に導き、宝塚在籍中に同じ役を再び演じた。物語1幕終わりの「鏡の間」では、真っ白で豪華なドレスを身に纏って、これ以上ないほど美しいドヤ顔で階段をゆっくり下りてきた。このときの彼女は、思わずこちらがひれ伏したくなるほどの輝きを放っていた。
 ビデオでさんざん観てきたこのシーンが、生で観られるなんて!!あらゆる方法でチケット争奪戦を勝ち抜いた私は、胸を高まらせながら帝劇へ遠征した。正直、贔屓であった朝海ひかるエリザベートを演じたときよりも緊張した。(あの時はコムちゃんお歌大丈夫かなぁ・・・という妙な緊張感でいっぱいだった) 

 前評判の高さはもちろん知っている。宝塚時代はさして巧いと思ったことがない歌唱技術も、血の滲む努力により地声でなんとかなるレベルまできていると小耳に挟んだ。けど初演から20年が経っている。確か宙組で再演したときに少女期がわざとらしいと小池先生に注意されたんじゃなかったっけ。共演者も一回り年が下の人が多いじゃないか。
 そんなことを思っているうちに幕が上がる。「死」であるトート閣下が舞台の上から黒い羽を背負って下りてくるというぶっとんだ演出に「やっぱりイケコ(小池先生)だ」と安心していると少女のシシィが登場する。ちょっとドタドタした歩き方、おしゃまでお転婆な姿。あぁ、ちゃんと少女だと息をつく。オペラグラスを覗き込む。首もとのシワがあざとく目につく。一瞬20年の月日を感じてしまう。

歌声は想像よりはるかに良い。笑った顔も愛らしい。トートダンサーに囲まれたときの不安げな表情は少女特有の頼りなさを湛えている。

 彼女の演技をひとつずつ確認するように味わっていくと、「私だけに」のシーンへ突入する。歌詞を噛み締めるように歌う、感情を乗せる歌い方はビデオで何度も観た宝塚時代を彷彿とさせる。大きく違うのはやっぱり歌唱力だと思う。こんなに歌える人ではなかったはずだ。1曲の前半部では悲しみの感情、後半部では自分のアイデンティティの確立を明確に歌い分けている。少なくとも2006年までは、1曲の中で成長が生まれる歌い方ができる人ではなかった。シシィの成長と花總まり自身の成長が私の中でダブる。舞台に立っていなかった時代から、復帰して以降の注目のされ方。周囲の期待は大きかっただろう。新聞や雑誌のインタビュー記事から、歌をなんとかしたいという思いは伝わってきた。もちろん今も抜群の歌唱力とはいえない。もっと上手な人は他にもいる。けれどなぜか、こんなにも泣ける。
 物語は1幕の終わりを迎える。いよいよ「鏡の間」だ。 エリザベートが少しずつこちらを振り向く。少女時代のお転婆な姿はない。気品に満ちあふれた王妃が、意志の強そうな目で客席を見つめる。
 私はこのシーンを観るためだけに東京までやってきた。花總まりの鏡の間が観られるのかと思うと、前日は遠足前の子どものように浮かれて眠れなかった。
しかし私が渇望していた「鏡の間」はそこにはなかった。

 彼女は、私の想像や妄想がいかに至らないかを身をもって証明してみせた。立ち居振る舞い、目線の運び方、瞬きの仕方、微笑、スカートのさばき方、そして背後に湛えた彼女自身の生き方。私が求めるものよりもずっと上の「鏡の間」を花總まりはくれたのだ。客席で胸騒ぐ私は、ゆっくり振り返る彼女に「静かになさい」と言われた気がした。14歳のとき、テレビで私を釘付けにしたマリー・アントワネットがふと脳裏に浮かんだ。

純白のドレスを着こなした美しいエリザベートは、優雅な手つきで扇子を翻す。
神々しくて、品格があって当然なのだと私は思った。
だって、花總まりは帝劇の女王なのですから。

 

参考資料

2014年7月朝日新聞夕刊
2015年6月「徹子の部屋
2016年7月中日スポーツ

パタリロ、無念の舞台化へ

宝塚OGの樹里咲穂はある日、自分が持っているテレビ番組で現・宙組トップスター朝夏まなとにこう切り出した。

「(あんたには)バンコランやってほしい」。

バンコランとは、少女ギャグ漫画界の雄「パタリロ」に出てくる超絶美形スパイだ。

樹里の台詞は、いっときの私の心を掴んで離さなかった。
むべなるかな!と何度首を縦に振ったことだろう。

樹里はその後、演出家さながらにバンコランの最愛の人であるマライヒ役や主役となるパタリロ役、そしてタマネギ部隊の群舞など次々と構想を練っていく。対する朝夏は、バンコランがどんな役なのかまったく理解していないようで、ニコニコとその話を聞いている。

 時を経て、宙組エリザベートのポスターが解禁になったとき、トート閣下に扮した朝夏のビジュアルを見たファンのうち一体何人が同じことを思ったのだろう。

宙組公演 『エリザベート-愛と死の輪舞(ロンド)-』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

お前、バンコランやないかい!と。

私もそう思った。激しくそう思った。だからパタリロを宝塚で舞台化してほしいという思いは一層高まったのだ。レンタルコミックでパタリロを借り、ときにはDVDを借りて激しく笑い、ちょっぴり泣きながら予習していたのに。
まさか、他の舞台に先を越されるだなんて。

www.huffingtonpost.jp


バンコランをそっちのけにし、同じ組織に所属している彼(ジェームス・ボンド)に夢中になっていた時期はあった。しかし、私はパタリロの宝塚化を切望していたし、この願望を忘れたことなど一度もなかった。

「美しさは〜つみ〜微笑みさえ〜つみ〜」と黒薔薇のシャンシャンを持った朝夏がゆっくり大階段を降りていく姿を観ることができないなんて本当に哀しい。哀しみのコルドバより哀しい。

www.youtube.com

 

 しかしながら、パタリロの舞台化を愛さない人はいない。
私は必ず観に行くだろう。

スカートに感情を乗せる星奈優里

宝塚には娘役芸というものがある。
男役と並ぶときに膝を折る、ボリュームのあるスカートにつまずかないよう裾を操作する、横顔を美しく見せるために首筋を浮き出させる、リフトは相手役の負担をかけないように軽く乗る。
私の把握しているものなど、きっと知れているだろう。気づいていない「娘役芸」は恐らくたくさんあるはずだ。
娘役は所作に美しさが求められる。歌舞伎や文楽のような形式美が求められる。
私は娘役芸をさりげなく、こちらが気づかないレベルでさっとこなしている人を見ると、すごいなぁと感動してしまう。

 

花組で仮面のロマネスクが再演されることが決まった。
柴田侑宏ラブな私にとっては近年の柴田アゲは本当に嬉しい出来事だ。
さっそく過去二作品を復習することにした。

高嶺ふぶきのスケコマシなくせに妙な実直さがあるヴァルモン
大空祐飛の狙った獲物は逃さない蛇系ヴァルモン

花總まり姫川亜弓系メルトゥイユ侯爵夫人
野々すみ花北島マヤ系メルトゥイユ侯爵夫人
どちらも好きだ。

(ただ宙組の公演はちょっと説明過多すぎるので、前の演出に戻してほしい)

けれど一番惹きつけられたのは、雪組公演でトゥールベル夫人を演じた星奈優里だ。

星奈優里は76期生。この期は風花舞純名里沙月影瞳と娘役トップを多く輩出している。星奈は星組から雪組へ組み替えしたあと星組に戻り1997年に娘役トップに就任。2001年に退団した。
風花舞と同じく踊りの名手として知られるが、星奈は娘役芸にとくに秀でていた。レビューでの美しいスカートさばきには、たびたびうっとりさせていただいたものです。
芝居にもその技術は存分に発揮された。特に「仮面のロマネスク」におけるトゥールベル夫人の「自分の正義と欲望の狭間でよろめきまくる」姿は圧巻だった。

ヴァルモンがトゥールベル夫人に迫る3場、トゥールベル夫人が彼に捨てられる1場は、トゥールベル夫人を見逃さないように視神経のすべてを彼女に注いでいたといってもいい。

注目はスカートのたくし上げ方と軽やかな身のこなしだ。
例えばヴァルモンと最後の面会を宣言した後。
ヴァルモンから逃げる際、本心では彼に堕ちたいと思っているため、スカートを後ろへ靡かせている。スカートの後ろをややひっぱって走ることで、裾が身体よりも大きく後退し、ヴァルモンへの気持ちの動線となり、彼女の未練は見事に表現される。

ヴァルモンに捨てられるシーンは白いドレスを左右に豊かに揺らせながら、捨てられた哀しみと、自分への絶望と、夫への裏切りの後悔をスカートにたっぷり乗せて演じている。特徴としては、感情的になるときはドレスに身体が埋もれるほどスカートを広げることと、よろめくとき、倒れる側(重心がかかる方)の裾を腰上までたくし上げることだ。こうすることで倒れるときにスカートが膨らむので、より立体的な感情が出せ、奥行きのある哀しみになる。
所作の緩急のつけ方も美しく、見とれてしまう。
彼女のよろめきについては1/60のシャッタースピードで各シーンを切り取ったとしても、すべての身のこなしが美しい絵として残るんじゃないかと思えるほど。
一昔前の少女漫画によく見られた「薔薇が背景に飛んでる」キメのシーンに見えるのだ。

何度観ても飽きることのない魅力的で放っておけない女性像を彼女は見事に演じきった。

私の心に深く残る、理想のトゥールベル夫人だった。

 

 

 

 

筆箱採集帳/ブング・ジャム

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私は昔から雑誌のカバンの中身特集やお家訪問特集、本棚特集といった「他人の生活の中身を見せてもらう」企画にしこたま弱い。
そして文房具が大好きだ。

だから4年前にこの本を見つけたとき、かなり鼻息が荒かった。

小学校と中学校では学校の購買部(クラスで1人、必ずしなくてはいけなかった)に自ら立候補し、好みの消しゴムや鉛筆、ノート、えんぴつキャップなどを入荷しまくり、お客様第一号になった。小学校の近くにある文具屋「銀座堂」にあったコーラの匂いがする練り消しを手に入れたときは、一生大事にすると胸に誓ったものだ。(現在は紛失している)。小学校低学年の頃、マイ・スイート・キャラクターはキティちゃんでもマイメロディでも、キキララでもなく、ミッキーやプーさんでもなく、うちのタマ知りませんかでもなく、ポチャッコだった。だれがなんといおうとポチャッコを愛していた。

ゆえに筆箱も、幼稚園卒園後すぐに夢叶って手に入れることができた、磁石の力で両面がドアみたい開く、下には物差しを入れておくかちっとしたやつはさっさと用済みにして、安物のポチャッコの筆箱を大切に使っていた。
 しかし、ポチャッコと私の蜜月は2年足らずで終了する。360度どこから見てもかわいいポムポムプリンと出逢ってしまったからだ。私は、あんなに大好きだったポチャッコの筆箱を棚の奥へ放り込み、そこから長くポムポムポリングッズを買い漁った。えんぴつ、消しゴム、キャップすべてをポムポムプリンにし、自分のことを「プリンって呼んでね」という、今考えると恐ろしい行動を取っていた。

中学生に突入すると、カラーペン、ラメペンに目覚める。いかに多くの色を集めるかに没頭し、筆箱をパンパンに膨らませた。もちろん、この頃は将来への夢もパンパンに膨らんでいた。0.3などペン先が細いペンこそ正義だと思い、疑わなかった。書きにくいなぁとも思ったけれど、小さくかわいい字を書くために必要なことだ。若者特有のやや斜体がかかった字をマスターするためには仕方なかったといえる。

高校に入るとドクタークリップの素晴らしさに魅了される。1本あれば充分なのに、限定色があると聞くや飛びついたせいで4本は筆箱に入れていた。ペン回しの技をマスターするために時間を費やしたので、授業中何度シャープペンシルを飛ばして怒られたことか。周りにごめんなさいと言いたいです。

大学生になると、お気に入りの筆箱を見つけた。布地で柔らかく、外には猪熊弦一郎が描くような猫のイラストが1つ。裏地は赤のチェックだ。中に入れるものはサラサのボールペン(赤・黒)とUSBメモリだけになっていた。この筆箱は黄ばんでぼろぼろになるまで使った。

 

そして社会人になった今、私はあれだけ愛していた筆箱を1つも持っていない。ボールペンは必要だが、カバンの小さなポケットにぶち込んでいる。無くなる事も多いけれど、新しいのを買えばいいやと思い、大して気にしていない。あれほど大事だった文房具たちが、いつの間にか宝物ではなくなっていた。

 

筆箱採集帳には、小学生や思春期の若者、サラリーマン、ナース、芸大生、建築家など50人以上の筆箱およびその中身が披露されている。持ち主の好みが反映された十人十色という言葉がふさわしい中身にうっとりするだろう。そして、私は安心する。

いつの時代も、小学生女子の筆箱はえんぴつキャップに気合いが入っているし、中学生女子はカラーペン集めに精を出している。男子学生は相変わらずボコボコの缶ペンを使っている。

 そして、自分が今後送ることがない人生を歩んでいる人の筆箱の中には、それぞれにとって必要なものや性格が出るものが収められている。あめ玉や、5円玉や、おびただしい量の色えんぴつや、クシ、日焼け止め、万年筆。何種類ものカッターに工具。

 

筆箱は宇宙だ。そして、持ち主の人生でもある。

 

 

 

 

少年の名はジルベール/竹宮惠子

 

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漫画家・竹宮惠子の自伝エッセイです。
竹宮は漫画家として上京後、萩尾望都と「大泉サロン」に住んで漫画を描き、増山法恵から文化的・芸術的教養を伝授されながら内面を磨いていきます。漫画家として経験を積むなか、彼女は自分の本当に描きたいテーマが発表できないジレンマを感じ、また同時に、ライバルである萩尾望都の才能に嫉妬して心の闇がどんどん深くなります。
信頼している編集者から「何ページであろうと、萩尾には自由に描かせる。ページ数が少なかろうが多かろうが、とにかく毎月萩尾だけは載せる」という話を聞いたときの悔しさは、相当なものがあったはず。

萩尾と自分の差を理解して追いつめられた竹宮は、萩尾から距離を置くために大泉サロンを解散する。しかしこの時点で萩尾は、解散の本当の理由を知らされていない。それから暫く経って、「距離をおきたい」と竹宮は萩尾に伝えるのだ。

どんな気持ちだったのだろう。
萩尾の才能に憧れと憎しみを抱き、彼女の存在が疎ましくなって、とうとう本音を告げる竹宮。
自分の存在が竹宮を苦しめていると気づいたときの萩尾。

それを乗り越えたからこそ、今の二人の地位があるのだと思います。
自分の中にある負の感情を乗り越えた人の引き出しは広く、深くなっている。竹宮の大きくなった引き出しにたくさんの知恵と価値観を与えたのが増山法恵だったんでしょう。

 この本のなかで最も好きなのは、10章のヨーロッパ旅行のところ。
本物のヨーロッパを見るために、竹宮・萩尾・増山に加えて山岸凉子の4人で貧乏旅行に繰り出します。ことにパリに興味があった竹宮は、本書のなかで「先月パリに行ってきたの?」と思えるくらい細かくパリについて描写している。もちろんメモを取っていただろうし、資料の写真もたくさん残っているから書けるんでしょう。けど、この章から「本物のパリを漫画に描いてやる!」という彼女の当時の熱意がむんむんと伝わってくるのです。

才能がある人は「視力(見る力)」を持っている。だからいろんなものを記憶し、理解し、自分のものにできるのだと私は思います。
竹宮は本来の才能に加え、人生のいろんな段階で視力を獲得していきます。上京したとき。都会の本物の文化に触れたとき。大泉サロンでさまざまな人に出会ったとき。ヨーロッパへ行ったとき。萩尾の才能について、自分との違いを具体的に理解できたとき。人気が出る少女漫画を生み出すため増山と深く話し合ったとき。

どれ1つ欠けても「風と木の詩」は完成しなかったかもしれません。
そういうことを踏まえ、私はこれから風と木の詩を読み始めていこうと思います。

(偉そうなことを書きましたが、風と木の詩はまだ全部読めていないのです・・・)

 

 

 

ジルベールと天沢聖司を操る早霧せいな

「ふら」という言葉がある。
落語家の古今亭志ん朝が雑誌のインタビューにて父の古今亭志ん生について語ったときに発言し、広まった言葉と言われている。

落語の場合のふらとは「その人でしか出せない独特のおかしみ」を指す。
落語家にとっておかしみは個性だ。しかし単なる個性ではその意味はまとまらない。時にはマイナスポイントとなり得ることさえも、その人の持ち味だと解釈され笑いに繋がる。ファンは落語家の持つ弱点、得意なこと、性格などなど…すべてをひっくるめた「その人らしさ」に魅了される。

私は、落語以外にも芸道においてはそれぞれの「ふら」が存在すると思っている。ふらの広域的な意味を「マイナスをプラスに変えるほどの強烈な個性」と解釈しているからです。「なんでか分かんないけど、あの人に惹かれる」「ダメなところも知っているけど、大好き!」という感情は、この「ふらマジック」が大きく影響しているんじゃないでしょうか。

 

前置きが長くなりましたが、現・雪組トップスターの早霧せいな(愛称:ちぎ)の話をしたい。おそばせながら「ニジンスキー」を観て、彼女の持つふらについて語りたくて仕方なくなったのです。

正直、最初の踊りのシーンについては「これはコムちゃん(朝海ひかる)で観たかったなぁ」とため息をついた。けれど芝居が進むにつれて、ニジンスキー早霧せいなでしかできない演目だと、心の底から思いました。

彼女の見た目は非常に麗しい。声は男役にしては高く、歌声もややソプラノ気味。歌の技術面における評価はあまり高い方ではない。けれど一生懸命歌う。あと、台詞を吐くように喋るときに息継ぎがそのままマイクに乗る。その声の出し方と歌声は、時には弱点と捉えられているはず。しかしそんな完全ではない彼女の姿が、純粋ゆえに身を滅ぼしていくニジンスキーと重なって仕方がない。

物語序盤で、ニジンスキーが支援者のセルゲイ・ディアギレフとキスしそうになるシーンがある。セルゲイに流されるおぼろげで美しいニジンスキーを観て、私は次のように思った。

「ジ、ジルベールの3Dやん!」 

ジルベールは、竹宮惠子が1976年に発表した「風と木の詩」に出てくる美少年です。少年愛ボーイズラブ)の金字塔といえる漫画作品で、性描写や禁忌行為を含みながらも、竹宮の美しい筆致がいかんなく発揮された、耽美的な内容になっています。
私は竹宮先生に一方的な縁を感じたことがあり、一時代を築いた風と木の詩を読んでみようと手を取ったことがある。当時はボーイズラブ文化にはまったく触れたことがなかったので内容に大いに戸惑い、実は最後まで未だに読めていません。(今はあまり抵抗がないので、挑戦しようと思っています)。本当なら語る資格はないんだけど、それでもジルベールは忘れられない魅力があります。美しく、不器用で、他人を信用していないくせに心の中では求めていて、魔性性があり、挑発的なのに儚げな一面がある彼に魅力を感じない人はいないはず。

竹宮先生は最近、「少年の名はジルベール」という自伝本を出版した。そこにこんな記述があります。

少年が持っている細くて不安定で、そんな薄紙一枚の時期にしかない透き通る声。身体も声もあともう少ししたら絶対消えてしまうとわかっている残酷な美しさ。(P41)

この刹那的な美しさを表現しようと竹宮先生はジルベールを描いたのでしょう。
早霧せいなの演じるニジンスキーには、竹宮先生のいう「不安定で、消えてしまう残酷な美しさ」があった。それは当時の彼女の技術的に課題のある歌声や、男役としてはまだまだ発展途上の2011年の公演であったことが「ふら」として活かされたんじゃないかと私は思っています。

 さて、2016年になった現在、早霧せいなは客が呼べるトップスターと言われています。彼女の性格は陽と陰でいえば陽。さっぱりとしていて、少年漫画に出てきそうな明るい人柄だなぁと(会ったことないけど)思っています。自分の男役像を磨くためにとても熱心に芝居に打ち込んでいて、職人気質なところがある(気がする)。近年の公演は「ルパン三世」のルパン、「るろうに剣心」の緋村剣心などの主人公気質がある役を演じています。

ファンの声を探していると、相手役を務める娘役トップスター・咲妃みゆとの「ちぎみゆ」コンビに魅力を感じている人がたくさんいるみたいなので、話題になっている動画を観てみた。

つっけんどんに接してみたり、からかったりするけれども、相手役に対しての愛情を持って対応しているように見える。ややSで、いじわるなくせに妙な優しさが感じられる。

これはあれだ、私の世代の女を虜にしたあいつに似ている。

「コンクリートロードはやめた方がいい」でおなじみの天沢聖司くんである。

天沢聖司ググると「ストーカー」という言葉を頻繁に見かけたけれど、それは捻くれ者の考え方だと思います。少なくとも、私の青春時代、周りにいた斜に構えていない友人たちの「理想のタイプランキング」においては、天沢聖司が常に上位に君臨していた。

咲妃みゆはちぎちゃんにメロメロ(に見える)なので、正直、月島雫にはまったく見えないけれど、早霧せいな天沢聖司っぽさが「ちぎみゆ」コンビの会話を微笑ましくさせている。

ちぎみゆを見守るファンの姿は、「耳をすませば」の中盤、中学校の屋上でいちゃつく二人をドアに隠れながらにやにや見つめるクラスメイトのそれと大差ない(褒め言葉です)。「ちぎみゆ」が好きだと話すファンの気持ち、私はよく分かった気がしました。

 

早霧せいなは、ジルベール天沢聖司というまったく反対の性質のそれぞれの魅力を潜在的に自分のなかに持っていて、おそらくそれを意図せず出せるのです。これはすごい二面性だと思う。

あと、個人的には彼女の眉間のシワが非常に好きだ。綺麗な顔に入るシワは、真琴つばさのキザなときに作るシワでも、瀬奈じゅんの男役の哀愁を漂わせるシワでもなく、早霧せいなが持つジルベール的性質の、儚げで、もろく、寂しい雰囲気をより強調する際の武器になっている。

 

参考文献 「少年の名はジルベール竹宮惠子小学館/2016年