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少年の名はジルベール/竹宮惠子

 

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漫画家・竹宮惠子の自伝エッセイです。
竹宮は漫画家として上京後、萩尾望都と「大泉サロン」に住んで漫画を描き、増山法恵から文化的・芸術的教養を伝授されながら内面を磨いていきます。漫画家として経験を積むなか、彼女は自分の本当に描きたいテーマが発表できないジレンマを感じ、また同時に、ライバルである萩尾望都の才能に嫉妬して心の闇がどんどん深くなります。
信頼している編集者から「何ページであろうと、萩尾には自由に描かせる。ページ数が少なかろうが多かろうが、とにかく毎月萩尾だけは載せる」という話を聞いたときの悔しさは、相当なものがあったはず。

萩尾と自分の差を理解して追いつめられた竹宮は、萩尾から距離を置くために大泉サロンを解散する。しかしこの時点で萩尾は、解散の本当の理由を知らされていない。それから暫く経って、「距離をおきたい」と竹宮は萩尾に伝えるのだ。

どんな気持ちだったのだろう。
萩尾の才能に憧れと憎しみを抱き、彼女の存在が疎ましくなって、とうとう本音を告げる竹宮。
自分の存在が竹宮を苦しめていると気づいたときの萩尾。

それを乗り越えたからこそ、今の二人の地位があるのだと思います。
自分の中にある負の感情を乗り越えた人の引き出しは広く、深くなっている。竹宮の大きくなった引き出しにたくさんの知恵と価値観を与えたのが増山法恵だったんでしょう。

 この本のなかで最も好きなのは、10章のヨーロッパ旅行のところ。
本物のヨーロッパを見るために、竹宮・萩尾・増山に加えて山岸凉子の4人で貧乏旅行に繰り出します。ことにパリに興味があった竹宮は、本書のなかで「先月パリに行ってきたの?」と思えるくらい細かくパリについて描写している。もちろんメモを取っていただろうし、資料の写真もたくさん残っているから書けるんでしょう。けど、この章から「本物のパリを漫画に描いてやる!」という彼女の当時の熱意がむんむんと伝わってくるのです。

才能がある人は「視力(見る力)」を持っている。だからいろんなものを記憶し、理解し、自分のものにできるのだと私は思います。
竹宮は本来の才能に加え、人生のいろんな段階で視力を獲得していきます。上京したとき。都会の本物の文化に触れたとき。大泉サロンでさまざまな人に出会ったとき。ヨーロッパへ行ったとき。萩尾の才能について、自分との違いを具体的に理解できたとき。人気が出る少女漫画を生み出すため増山と深く話し合ったとき。

どれ1つ欠けても「風と木の詩」は完成しなかったかもしれません。
そういうことを踏まえ、私はこれから風と木の詩を読み始めていこうと思います。

(偉そうなことを書きましたが、風と木の詩はまだ全部読めていないのです・・・)

 

 

 

ジルベールと天沢聖司を操る早霧せいな

「ふら」という言葉がある。
落語家の古今亭志ん朝が雑誌のインタビューにて父の古今亭志ん生について語ったときに発言し、広まった言葉と言われている。

落語の場合のふらとは「その人でしか出せない独特のおかしみ」を指す。
落語家にとっておかしみは個性だ。しかし単なる個性ではその意味はまとまらない。時にはマイナスポイントとなり得ることさえも、その人の持ち味だと解釈され笑いに繋がる。ファンは落語家の持つ弱点、得意なこと、性格などなど…すべてをひっくるめた「その人らしさ」に魅了される。

私は、落語以外にも芸道においてはそれぞれの「ふら」が存在すると思っている。ふらの広域的な意味を「マイナスをプラスに変えるほどの強烈な個性」と解釈しているからです。「なんでか分かんないけど、あの人に惹かれる」「ダメなところも知っているけど、大好き!」という感情は、この「ふらマジック」が大きく影響しているんじゃないでしょうか。

 

前置きが長くなりましたが、現・雪組トップスターの早霧せいな(愛称:ちぎ)の話をしたい。おそばせながら「ニジンスキー」を観て、彼女の持つふらについて語りたくて仕方なくなったのです。

正直、最初の踊りのシーンについては「これはコムちゃん(朝海ひかる)で観たかったなぁ」とため息をついた。けれど芝居が進むにつれて、ニジンスキー早霧せいなでしかできない演目だと、心の底から思いました。

彼女の見た目は非常に麗しい。声は男役にしては高く、歌声もややソプラノ気味。歌の技術面における評価はあまり高い方ではない。けれど一生懸命歌う。あと、台詞を吐くように喋るときに息継ぎがそのままマイクに乗る。その声の出し方と歌声は、時には弱点と捉えられているはず。しかしそんな完全ではない彼女の姿が、純粋ゆえに身を滅ぼしていくニジンスキーと重なって仕方がない。

物語序盤で、ニジンスキーが支援者のセルゲイ・ディアギレフとキスしそうになるシーンがある。セルゲイに流されるおぼろげで美しいニジンスキーを観て、私は次のように思った。

「ジ、ジルベールの3Dやん!」 

ジルベールは、竹宮惠子が1976年に発表した「風と木の詩」に出てくる美少年です。少年愛ボーイズラブ)の金字塔といえる漫画作品で、性描写や禁忌行為を含みながらも、竹宮の美しい筆致がいかんなく発揮された、耽美的な内容になっています。
私は竹宮先生に一方的な縁を感じたことがあり、一時代を築いた風と木の詩を読んでみようと手を取ったことがある。当時はボーイズラブ文化にはまったく触れたことがなかったので内容に大いに戸惑い、実は最後まで未だに読めていません。(今はあまり抵抗がないので、挑戦しようと思っています)。本当なら語る資格はないんだけど、それでもジルベールは忘れられない魅力があります。美しく、不器用で、他人を信用していないくせに心の中では求めていて、魔性性があり、挑発的なのに儚げな一面がある彼に魅力を感じない人はいないはず。

竹宮先生は最近、「少年の名はジルベール」という自伝本を出版した。そこにこんな記述があります。

少年が持っている細くて不安定で、そんな薄紙一枚の時期にしかない透き通る声。身体も声もあともう少ししたら絶対消えてしまうとわかっている残酷な美しさ。(P41)

この刹那的な美しさを表現しようと竹宮先生はジルベールを描いたのでしょう。
早霧せいなの演じるニジンスキーには、竹宮先生のいう「不安定で、消えてしまう残酷な美しさ」があった。それは当時の彼女の技術的に課題のある歌声や、男役としてはまだまだ発展途上の2011年の公演であったことが「ふら」として活かされたんじゃないかと私は思っています。

 さて、2016年になった現在、早霧せいなは客が呼べるトップスターと言われています。彼女の性格は陽と陰でいえば陽。さっぱりとしていて、少年漫画に出てきそうな明るい人柄だなぁと(会ったことないけど)思っています。自分の男役像を磨くためにとても熱心に芝居に打ち込んでいて、職人気質なところがある(気がする)。近年の公演は「ルパン三世」のルパン、「るろうに剣心」の緋村剣心などの主人公気質がある役を演じています。

ファンの声を探していると、相手役を務める娘役トップスター・咲妃みゆとの「ちぎみゆ」コンビに魅力を感じている人がたくさんいるみたいなので、話題になっている動画を観てみた。

つっけんどんに接してみたり、からかったりするけれども、相手役に対しての愛情を持って対応しているように見える。ややSで、いじわるなくせに妙な優しさが感じられる。

これはあれだ、私の世代の女を虜にしたあいつに似ている。

「コンクリートロードはやめた方がいい」でおなじみの天沢聖司くんである。

天沢聖司ググると「ストーカー」という言葉を頻繁に見かけたけれど、それは捻くれ者の考え方だと思います。少なくとも、私の青春時代、周りにいた斜に構えていない友人たちの「理想のタイプランキング」においては、天沢聖司が常に上位に君臨していた。

咲妃みゆはちぎちゃんにメロメロ(に見える)なので、正直、月島雫にはまったく見えないけれど、早霧せいな天沢聖司っぽさが「ちぎみゆ」コンビの会話を微笑ましくさせている。

ちぎみゆを見守るファンの姿は、「耳をすませば」の中盤、中学校の屋上でいちゃつく二人をドアに隠れながらにやにや見つめるクラスメイトのそれと大差ない(褒め言葉です)。「ちぎみゆ」が好きだと話すファンの気持ち、私はよく分かった気がしました。

 

早霧せいなは、ジルベール天沢聖司というまったく反対の性質のそれぞれの魅力を潜在的に自分のなかに持っていて、おそらくそれを意図せず出せるのです。これはすごい二面性だと思う。

あと、個人的には彼女の眉間のシワが非常に好きだ。綺麗な顔に入るシワは、真琴つばさのキザなときに作るシワでも、瀬奈じゅんの男役の哀愁を漂わせるシワでもなく、早霧せいなが持つジルベール的性質の、儚げで、もろく、寂しい雰囲気をより強調する際の武器になっている。

 

参考文献 「少年の名はジルベール竹宮惠子小学館/2016年